パザ日誌

コラムというほど大袈裟でなく、日記というほど更新もできない。
ただ、pazapのメンバーが思ったことを書き綴るページです。


2003年09月20日(土曜日)----すぎもと

マナー

なんか、<p>の前後のマージンが嫌になってきて無くしました。そうしたら、色々と今までの悪い部分が目立って来て困りますなぁ。つまり、話題を変えたりする時は前後にスペースを開けたいんですが、これを何で実現すればいいのか悩んでます。できるだけシンプルにする為に<div>は使うのをやめて、<hr />を使って背景画像を付けようかと思ってやってみました。一応うまくいったのですが、それはMozilla系やSafariでの話で、そもそもIEやOperaとかでは線が消せないんですね。がっくり。結局てっとり早い解決法の「背景画像を使わない」にしてみました。


電車の駅ではいつも、エスカレーターを使わずに階段を使います。

電車が駅について、ドアが開いた目の前がエスカレーターでも、特に混雑時は階段へとまわります。一番の理由は、最近運動不足を感じているためですが、ほぼ同じくらいの理由はやたらエスカレーターの前が混雑するからです。これは人込みが嫌いだというのと、「そこまでして楽をしたいか?」っていうのもあります。勿論本当に疲れてて階段を使いたくないっていう人もいるのでしょう。でも「私、最近太っちゃって、ダイエットしようと思ってルームランナー買おうと思うの。うふふ」なんて言ってるような人が絶対居るんだよ(笑)。そんもん買うよりエスカレーターやめて階段登れよ! って思うのは私だけでしょうか?

ちょっと共通するのは電車に乗ってくる人です。電車が駅に着いてドアが開くまでの間、反対側のドアの前に立ってて開くドアの外を観察すると面白いですよ。もうおばちゃんなんか目がギラギラ血走ってますね。座る所を確保するためにはどうしたらいいのか、そういうのを必死で計算してる訳ですね。勿論疲れててどうしても座る必要がある人も居ると思います。でも何故かあの血走った目を見ると、一種のおぞましさを感じる訳です。だからボクは自分が一番前に並んでいて、席が空いていても基本的に座りません。そこまでして座りたいのならどうぞっていうのと、外見から体が不自由なのかどうか分からない人でも、実は必要な人が居るかも知れないので、自分にどうしても座る理由がない場合は座らないと決めているのです。

席を譲るっていう行為は、直接的に譲らなくても、自分が座らないという方法で実現できるものだと考えます。実際に直接譲る時にちゃんと必要な人に譲れるかどうかっていうのはボクには判断できません。だから座らないのが一番なんです。

そう、ボクは偽善者で善人ぶってますが「みんなこうしようよ!」って薦める気なんてサラサラないです。ボクが勝手にやってるだけの事なのです。でも、いくら歩くのがダルいって言っても、障害者用の駐車スペースに停めて行くなんていう、いかにも「違うやろう!」っていう人はちょっと考えるべきだと思います(考えられる人はやりません・笑)。あれは損得で考え行動してるんでしょうか? 歩くのを「損」と考える感覚自体がナンセンスだとは思うのですが。偽善者のボクは、人目を気にしてまず出来ませんから、そういうのを見ると「凄いな」と思います。


2003年09月19日(金曜日)----すぎもと

ポリリズム雑記(そのに)

えぇ、好評に付き(大嘘)ポリリズムの話のつづきなどを。今日はポリリズムと変拍子の関係について考えてみたいと思います。……って言うと、なんか講義みたいで偉そうなんですけど(笑)。そういうんじゃなくて、最近ふと考えたりしてる事を無責任に書くだけです。

ポリリズムっていう事を考える時、「変拍子」とも大きく関係があるのに気付きます。でもポリリズムは別に変拍子でなくても使えるんですね。むしろ効果的につかうには、ずっと4拍子で進行してる中で使った方がいいのかもしれません。フランク・ザッパ御大の「ブラックページ・パート1」みたいに、強烈なポリリズムをテリー・ボジオのハイハット4分打ちの上で行うような。これは現代音楽的な手法ですね。部分的に5連や7連などを使う、ある一定時間だけのポリリズム。だいたい技術的に難しい事をやろうとする場合、ギターの速弾きのように驚異的なスピードを極めるか、変拍子に行くかが王道だとおもうんです。でもポリリズムに行く道もあるんですよ。それを、あまりにも安直に変拍子に流れる事への批判みたいなのも生まれてくる所があると思うんです。例えばティポグラフィカが、あくまでも「4拍子だ」と主張した所はそういう部分もあったんじゃないかと思えるんです。いや、人のせいにしてばかりじゃダメですね。ボクもそう思う部分がちょっとあります。

で、ポリリズムと変拍子の親密な関係が生まれてくるのは、一時的に5連や7連や11連とかが出てくる現代音楽的(部分的)ポリリズムじゃなくて、例えば曲まるごとポリリズムとかの場合です。例えば曲まるごと4と5のポリリズムだとします。これは4拍子の曲だと考えると、5の部分は5連符になりますが、5がずっと続くと言う事は、5のパートを演奏してる人にとってはその曲は5拍子なんですね。つまり逆に5拍子の曲だと考えると、4のパートが4連を演奏してる事になります。この二つは基本をどっちに置くかによって、4拍子だったり5拍子だったりするという事です。こういうのは、プレイしてる人にとっては互いに4拍子や5拍子だと思って演奏できる訳です。もちろん4を感じながら5をプレイすることも出来る訳ですが。

それから最近思うのですが、「ポリリズム」っていうのは「リズムの不協和音」みたいだなぁって思うのです。同じパルス上に存在しないものがぶつかると、特に不協和音的な変な感じが生まれます。例えば、3連の曲が進行してる上で、イーヴンな8分音符を連続して演奏してみます。そうすると、やっぱり何か変な感じがしますよね。これはある意味「間違ってる事」とされたりする事なんですね。でも、そういう「変な感じ」を気持ちいいと感じて、それをあえてやる場合もあります。このあたりが不協和音っぽいと思うんです。パルス上にないものが、微妙な間隔でぶつかる感じです。勿論、不協だと感じるかどうかは聴く人の主観的な問題なんですけれど。いや、「不協」と感じても「不快」と感じるとは限らないという事ですね。自分で決めたらいい問題だと思います。

例に出した3連とイーヴンな8分がぶつかってる曲を紹介しましょう。たまの「しょぼたま2」っていうアルバムに入ってる「いなくていいひと」っていう曲は、途中がこのパターンのポリリズムになってます。ちょうど空に登ってく子供たちのっていう歌詞の所です。この曲は3拍子系の3連の曲なんです。これを3/4拍子と考えると、ちょうどギターとうたはずっと3連で、この部分になるとトイピアノがイーヴンの8分で入ってきます。途中からパーカッションも8分になって、自然な感じなんですが実はポリリズムっていう効果的なアレンジになってます。特にポリリズムに入る前に、パーカッションがおかず的にイーヴンな8分を叩いています。このあたりは流れ的に絶妙ですね。たまのアレンジ力はほんとに素晴らしいです。この曲は3/4で考えましたけど、9/8の方が自然かもしれません。その場合は9/8と6/8のポリリズムという感じでしょうか。


2003年09月18日(木曜日)----すぎもと

ポリリズム雑記(そのいち)

今日ニュースでやっていた卓球の試合を見ていて、あの愛ちゃんて誰かに似てるなぁ……と思ってずっと考えてたんですが。さっきやっと分かりました。でも自粛します。


さて、一応毎日書いてるこの日誌ですが、これとは別にプライヴェートな日記も三か月くらい前から書いてます。そっちのはどっちかっていうと事務的な、いつどこでどうしたという様なものや、色々な意味でここには書けないような事を書いております。この日誌は「今日起こった事」よりも「今日思った事」を書くのに重きを置いてますので、この二つでバランスを取ってる訳です。「今日思った事」も全部を思ったまま公開出来る訳じゃないので、好き勝手書ける日記が有った方が精神衛生上という点でもバランスがとれて良いのです。でも暫く続けてみて思ったのは、プライヴェートな日記の字数が増えるとこの日誌の字数が減る傾向があるんですね。基本的に重複した事は書いてませんし、日記から抜き取った部分をここにアップしてる事もないです。そういう訳で、何故こんな事を書いているかっていうと、プライヴェートな日記の字数が多くて、こっちのネタがありません(笑)。無かったら書かなきゃいいだけの話ですが、こう毎日書いてると義務感みたいなのが湧いてくるんですね。まったくもって不幸です(笑)。読んでる人も不幸ですね。ははは。

最近ここのサイトのログを見てると、「ポリリズム」っていう検索で来られる方が毎日いらっしゃいます。そういえば今までに色々と「ポリリズム」について書いたりしましたが、結構中途半端なままにしてあって、その内に直そうと思ってそのままになってたりするんですよね(これは、ここのCSSも同じなんですが)。「ポリリズム」で検索して来てくれる人たちが納得してくれる記事がここにはないような気がして、ログを見るたびに恐縮してます。

ボクの中ではすっかり、音楽の表現という点では「ポリリズム」がテーマになってしまってます。ポリリズムを導入する音楽という点では、今二つの流れがあるように思うのです。ひとつはフランク・ザッパ系の流れ。簡単に言うと奇数連符とかその分割とか、曲の部分部分にポリリズムが取り入れられている感じですね。どっちかっていうと、譜面に書き込まれているのが多いですかね。日本のドラマーでいうと植村昌弘さんや菅沼道昭さんのバンドがやってる感じだと思います。ティポグラフィカもそうでしたね。もう一つはDCPRG系。こっちはパーツじゃなくて、曲まるごとがポリリズムで進行していくパターンです。どっちかっていうと、前者の方がマニアックな感じになりがちな傾向がうかがえます。極端に言うと、前者が「現代音楽的」で後者は「民族音楽的」という感じがします。そういうなかで、その両方の美味しい所をちょいちょいと取り出して、中間的な路線のアプローチが出来ないかなぁとか考えてるんですが難しいですね。というか、そもそもポリリズムを曲に取り入れるっていう事自体が難しいですが。ちょっと実験的に今やってるpazapの新曲のエンディング部分を、3と4と5のポリリズムにマイナーチェンジしてみようかなぁと考えていたりします。

おっと、書き出したら色々とでてくるので、もったいぶって明日につづきます。本当はもったいぶってる訳じゃなくて、書き出したんですけど、眠くなっただけなのです(笑)。


2003年09月17日(水曜日)----すぎもと

ドラマガ二〇〇三年一〇月号

実は「ドラム・マガジン」を毎月は買ってないんです。金銭的余裕もないんですが、それよりも置いておく所が無いのです。でも今月号はなんの迷いもなく買ってしまいました。オラシオ”エル・ネグロ”エルナンデスのインタヴューに外山明さんのドラムセットの写真がドーンと二ぺぇじ(バラフォン付きのセット、カッコイイっす!)。それから「菅沼孝三インドネシア旅日記」ドドドーンとカラーで六ぺぇじ。それにCDが付いて「プロ・ドラマーによる怒濤のオスティナート・ソロ」という事で、収録されてるTOSHI NAGAIさん、大坂昌彦さん、孝三先生ともに凄まじいドラム・ソロでした(もちろん他にも記事満載)。

しかーし、"Rhythm Junction"っていうコーナーにはなんと、先月行われた「ドラム道場発表会」の模様が載ってるでわないですか! あぁ、参加してない時に限って……(笑)。ちょっと悔しい今日この頃。そういえば、この発表会の記事にも写真が載ってる小学生ドラマー「和丸」くんは、去年もゲスト参加でしたが、最近のポカリスエットのコマーシャルに出てますね。福山雅治と一緒に。

なんて書いてて思い出しましたが、この前に近くの古本屋さんで二〇〇一年二月の「ドラム・マガジン」を発見して、一〇〇円で買ったまま見ずに放ったらかしてあったのでした。孝三先生とか植村昌弘さんとかが載ってたのでした。今から読もうっと。

なぁんて書いてて思い出しましたが、ドラマガの「誌上コンテスト」の事すっかり忘れてた(笑)。ヤバイ……。

てな事を書いてたら……。もう無いです。ははは。


2003年09月16日(火曜日)----すぎもと

まっとうに生きることの意味

「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(井上ひさし ほか:著/文学の蔵:編/新潮文庫/ISBN4-10-116829-6)を読んでいたら良い話があって、得した気分がしました。この本は、井上ひさしさんの作文ワークショップという感じの催しをまとめた本のようです。日本語についての分析が色々とあって、とても興味深いのです。その中で、本題に入る前に少しだけ昔話として触れられているエピソードが、なんとも心にしみる良い話で感動したのです。

井上ひさしさんが中学生の頃、当時住んでいた町の大きな本屋さんで、いたずら半分で国語辞典を万引きした事があったのだそうです。それを店番のおばあちゃんに見つかってしまい、店の裏に連れて行かれて注意された後、薪割りをさせられたのだそうです。以下、ご本人のことばを引用します。

 僕はてっきり薪割りは罰だと思っていました。ところが、それだけではなかったのです。
 薪割りが終わると、おばあさんが裏手に出て来て、その国語辞典を僕にくれたんです。それどころか、「働けば、こうして買えるのよ」と言って、薪割りした労賃から辞書代を引いた残りだというお金までくれた。
 おばあさんは僕に、まっとうに生きることの意味を教えてくれたんですね。

この話を読んで「良い話だなぁ……」とひとしきり感動した後、現代の日本でこういう事が起こりうるのだろうか? と、ちょっと考えてしまいました。今ではこういう場合、店主が警察に突き出すか、親が逆切れして「薪割りなんて危ない事させないで! お金払えばいいんでしょ!!」なんて言い出しそうです。いや、ちょっと極端で乱暴かもしれませんが、特に後半のは、今売ってる「新潮45」に載ってる堺市の小学校の先生が書いた文章を読んだばっかりだから、余計にそう思うのかもしれません。ホント、信じられない親が居るもんだと思って、こんなのがゴロゴロ増殖してるのなら、いくいくは日本から脱出するしか手がなさそうな気分になってしまった所なのです。

これからの日本は、井上ひさしさんが育った時代のレヴェルに帰るか、ブレーキが壊れた暴走車の如くつっぱしるかのどっちかなのでしょうかね? 他に道はないものか? とか、ガリガリ君の「グレープ味」をガリガリとかじりながら、涼しいエアコンの風の下で思った訳です。


2003年09月15日(月曜日)----すぎもと

「ヤノベケンジ展」と「えびボクサー」

国立国際美術館 へ「ヤノベケンジ MEGALOMANIA」を観に行きました。万博公園へ行くと言う事は、ボクと同じ歳の「太陽の塔」に会えるという事で、久々に近くで見る事が出来て嬉しかったです。「やぁ、最近どう?」とか言いながら。太陽の塔は裏の黒い太陽がかっこいいんですよね。
太陽の塔(正面) 太陽の塔(後ろ) 太陽の塔(横)
(上の写真をクリックすると、それぞれ大きい写真が見られます)

万博公園へは初めて電車で行きました。京都からは阪急電車で南茨城で 大阪モノレールに乗り換え、二駅目の万博記念公園駅で下車。駅を出るとすぐにエキスポランドがありますが、それを横目に高速道路の上を横切る橋を渡って太陽の塔のある方へ行きます。こっちから行くと「自然文化園」(有料)を横切って行く事になりますが、美術館の料金にはこの入場料も含んでいて、それでも一般で四二〇円と格安です。自然文化園だけの入場でも二五〇円かかるので、一七〇円の追加で見学できると言う事になるんですよね。お得! 
ブンカーの売店

太陽の塔のすぐそばを通って、今日はフリーマーケット(有料)が開催されてた「お祭り広場」を右手に見つつ、一旦公園内から出たら民博とかホールとか美術館とかがあります(一旦、自然文化園を出る事になりますが、再入場が出来ます)。

国立国際美術館は来年の秋には、大阪は中之島への移転を控えていて、万博の跡地が原風景だというヤノベケンジさんの展覧会としては、今回のこの場所での開催というのは、とても重要な意味があるのでしょうね。美術館に入ると「エレベーターで三階へどうぞ」と言われます。三階の広いワンフロアーが主な展示場でした。側面の壁にはチェルノブイリやエキスポタワーの解体現場、太陽の塔の上などに、アトム・スーツを着たヤノベさんが映る写真が展示してあります。会場内には線路が敷かれ、真ん中にはエキスポタワーの一部を使った作品が。その横には「ニューデメ」っていう、時々顔を水に浸けたりする作品のがあったのですが、これは大阪万博開催時にお祭り広場にあったという巨大ロボット「デメ」を再生したものだとか。ボクは七〇年生まれなので、七〇年開催の万博なんて体験してる筈がなくて、この「デメ」というロボットも(もちろん「デク」も)知らないのです。ちょっと興味が湧いて来てネット上で検索してみたのですが、写真が見つからないですね。万博の本を探してみるとしましょうか。NHK大阪放送局のBKライブラリーには映像が残ってるらしいという情報は検索したのですが。

意外と面白かったのは、作品よりも小さい頃にヤノベさんが書いた短編小説や漫画とかだったりして(笑)。それから会場内には小さな部屋みたいなのが作ってあって、その中では映像を見る事が出来る様でした。内容はヤノベさんが通称「目玉男」氏にインタヴューをしている映像など三本くらいが上映されていたようでした。この目玉男氏のインタヴューは興味が有るので是非見たかったのですが、五十分ものという事で時間的に無理で諦めました(閉館三〇分前とかだったので)。毎日放送が放送したドキュメントでも、今はランジェリーショップを経営しているというこの目玉男氏へのインタヴューがありましたが、その違う編集ヴァージョンだったのでしょうか? 見たかったです。「目玉男」氏というのは、万博開催時に太陽の塔の最上部の金色の顔の所の目玉部分(夜になるとここが光ります)にひとりで籠城(?)して、万博の中止を訴えた人なのだそうです( 追想 日本万国博覧会さんの 目玉男というページに詳細があります)。 毎日放送のオンエアでも言ってましたが、目玉占拠時に会場に現れた岡本太郎氏は、この様子を双眼鏡で覗いたり、写真を撮っていたのだとか。先の「追想 日本万国博覧会」さんのサイトから引用させてもらうと。

イカスねぇ ダンスでも踊ったらよかろうに

と言ったのだとか。ははは。さすが岡本太郎! こうでなくっちゃ!!

メインの会場は三階になるのですが、地階には"megaromantic cage"というカフェがオープンしてて(土・日・祝日のみ)、「メガロマンティック・ティー」「アトミック・ティーミルク」「ソウル・オブ・アミノキング」「ガイガジュース」なんてメニューの飲み物のみが、屋外の「ブンカー・ブンカー」っていう作品の中で販売されていました。ちなみにボクは「ソウル・オブ・アミノキング」を飲みましたが(二〇〇円也)、五〇〇ミリリットルのペットボトルで、今流行りのアミノ酸系スポーツ飲料でした。ペットボトルには小さい「ヤノベ・シール」が貼ってありましたが、キャップには"KIRIN"と書いてあったのは内緒です(笑)。

モノレールで南茨城へ、阪急に乗り換えて梅田まで移動。
阪神優勝MBS前
夜は テアトル梅田でレイトショーの「 えびボクサー」を見ました。テアトル梅田は茶屋町のLOFTの地下にあって、向かいには毎日放送の社屋があります。ちょうど着いた時に毎日放送正面入り口に「タイガース優勝おめでとう」という看板を掛けている所で、でもこの場所でファンが大騒ぎをしているという感じでなくて、みんな記念撮影をしてるって感じ。その前に大阪駅近辺で晩ご飯を食べていると、外で阪神ファンが大騒ぎで走り回ってたので、あぁ優勝したんだなぁ……とは思ってたのですが。

そういう、大阪市内が異常な盛り上がりをしてる頃に、ごく一部の人たちは、この地下のちょうどいいキャパシティの映画館の素晴らしいスクリーンで、音が良いドルビーサラウンドで「えび」がボクシングをするという、このなんとも言えないヘンテコな映画を見ていたのであります。トンデモ映画なのか感動ものなのか一瞬とまどってしまう映画でしたが、少なくとも動物愛護協会から「動物虐待だ」と文句を言われる筋合いはまったくない映画ですね。きっとそういうのはネタじゃないですかね? ハリボテ風の巨大えびに、タコの気ぐるみを着たおっちゃんがぶっ飛ばされる所は大爆笑でとても面白かったですね。巨大えびを興行として売り込もうとする変な映画ですけれども、実はテーマは「愛」という所が一番の「トンデモ」な所だったりして。普通に面白い映画でした。

帰りの電車の中には、片一方の足にスニーカー、もう片一方にはサンダルを履いた人が乗っていて、阪神優勝の混乱ぶりが想像できました(笑)。阪神優勝、おめでとう!!


2003年09月14日(日曜日)----すぎもと

Something Live!

pazapのギタリスト、いくぼん氏がギターで参加するもひとつのバンド"Something"がライヴをします。

Something Live
開催日
二〇〇三年九月二一日(日曜日)
場所
MOJO WEST(京都北山)
時間
午後六時三〇分
料金
一五〇〇円(1ドリンク付き)
出演
Cross Point Social Ensemble , Something
MOJO WEST Web Site
http://www.mojo-west.com/

2003年09月13日(土曜日)----すぎもと

関東で大地震?

「何か異常に顔が脂っぽくてベトベトする」っていう話をしてたら「目の前に鏡があるからちゃう?」って言われました(笑)。確かに目の前の机の上には小さな鏡が置いてあって、しかも横を向くと縦長の一メートル以上有る鏡が。ボクの前世はガマガエルか? ガーガー。ガマガエルってどう鳴くんだろう? ガマガマ?


昨日(今日?)は明け方まで、一部では話題沸騰の「今月十六、十七日(あるいはこの前後二日)に南関東で起こるかもしれない大地震」についての情報を追っかけてしまったので、結局曲は未完成に終わってしまって、G5の夢は遠のいたのでありました。この曲はまた完成したら公開したいと思います。しかし、この地震は起こるとエライ事になるのですが、ニュースでもほとんどまともに取り上げられてないので、国家もマスコミも眉唾物だと思ってるんでしょうね。ボク的にはそういう所が「ひょっとして……」とかって思ってしまいます。

どっちにしてもリスキーなこの情報を発表した 八ヶ岳南麓天文台地震前兆観測研究センター串田嘉男さんって言う人は、勇気有ると思いますね。 iiV News:コラム(第2回 『串田 嘉男』)というサイトに動画があって、興味深いです。

この地震関連でサイトをめぐってたら、このまえのラピュタ雲と同じのが岐阜県や西東京でも目撃されていたのも発見。この雲じたいは地震とは関係なさそうな感じでしょうが、同じ時期に色々な場所で見られてたっていうのは面白かったです。

地震関連といえば、この雲よりも何か月か前から、東京近郊の海がない場所で「海の匂いがする」とか「潮くさい」とかって話題になってたりして、これも凄く気になる所です。なにも起こらなければいいのですが。


そして今日も図書館へ。ピエール・ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」(Le marteau sans maitre)と、ショスターコーヴィッチの「室内交響曲」とかの現代音楽ものと、コジママ(小島麻由美の略。 菊地成孔さんが日記でこう呼んでるのでうつってしまいました)の「愛のポルターガイスト」を借りました。

この図書館はDVDも置いてあるのですが(館内の視聴のみで貸し出しは不可)、今日は「ロッキーホラーショー」をみてる人がいてビックリ。網タイツ履いたおっさんが踊ってるこの映画が、この公共施設で流れてるのを見ると感動しますね。ええぞ! どんな映画を置いてあるのか覗いてみると「不思議惑星キン・ザ・ザ」とかもあって、つくずくなんだこの図書館は! って笑ってしまいました。というか、感動した。誇るべき図書館です。

図書館の下にある本屋さんで、今日発売の「ドラム・マガジン」(CD付き)を買って帰ったりして、夜はpazapの練習にスタジオ・ラグへ。最近ずっと同じスタジオを使ってたので、今日は違うスタジオでやってみました。いやぁ、人間慣れってのは怖いですね。音の出方、というより回り方がいつもと違うので変な感じでした。たまには環境を変えないといけないですね。新曲もライヴで出来そうな感じになってきましたです。


2003年09月12日(金曜日)----すぎもと

ジワジワと来るヒバクシャ

読書と読書の間に本を読みました。向かい酒ならぬ向かい本? なぁんて、そんなのカッコ良いなぁなんて思って、つい書いてしまいました。実はそんなに読書家ではないのです。今日読んだのは「僕はこうして日本語を覚えた」(デーブ・スペクター:著/同文書院/ISBN4-8103-7540-4)で、これをにはデーブスペクター氏が埼玉県で生まれた事とか、足立区の小学校に通ってたとか、髪を染めてるとか、そういう事が分かる訳です。もちろん嘘ですけど(髪は染めてるのかな?)。


アメリカのいわゆる同時多発テロから二年が経った昨日は、「 ヒバクシャ 世界のおわりに」という映画を観に行きました。京都は河原町の六条あたりにある ひと・まち交流館 京都という新しい施設の大会議室です。会議室って聞いてちょっと大きめの普通の会議室なのかな? と思ってましたが、入ってビックリ。スクリーンこそそんなに大きくないですが、ちゃんと席が一段ずつ上がってるんですね。多分可動式になってて、必要の無い時には仕舞えるんじゃないかという感じでしたが。観客は五十人弱くらいですかね? 多くもないけれど少なくもないという感じでした。

始まる前にこの映画の監督の鎌仲ひとみさんのお話が暫くあって、それから本編、そして終わってからティーチイン(質疑応答)という構成です。はじめのお話では、この「ヒバクシャ」というのがカタカナ表記なのは「被爆者」と漢字で書いてしまうと日本人被爆者(=ヒロシマ、ナガサキの原爆被爆者)だけの事と思われてしまうというような事、そして「世界のおわりに」という希望も何にも無いサブタイトル(?)は、被爆して死んで行く人達ひとりひとりにとっては、その瞬間に世界がおわるのと同じ意味ではないか、という意味が込められているというお話をされていました。

二時間弱のこの映画はドキュメンタリーなんですが、例えば「ボーリング・フォー・コロンバイン」みたいなエンターテイメント性がある訳でも、そしてほとんど敵陣に乗り込んでいく訳でもなく、淡々とヒバクシャを追っているんです。その事自体には人によっては賛否は別れるところだとは思います。観ている間には、激しい怒りとか悲しみとか憎しみとか、そういうこころの動きっていうものは起こりませんでした。ただ、この映画が扱ってるのは原爆投下によりその瞬間には激しい被爆をしたというような「ヒバク」ではなくて、「低線量被曝」という、例えば湾岸戦争の時にイラクに投下した劣化ウラン弾が、大量に空気中に放出した放射能をちょっとずつ毎日摂取したために、何年か後になって癌や白血病を発症して苦しんでるという事で、この映画はまさにこの通りに、じわじわと効いてくるタイプの映画だと思いました。だから観終えてスカーっとする事もないし、逆にムカーっともしない。ただ、イヤーな違和感が胸の辺りにとぐろを巻く感じがしました。

この映画には大きく分けて「イラク」と「アメリカ」と「日本の原爆投下地域」、それから「日本の多数の人々」という四パターンのヒバクシャが登場します(いや、正確には最後のは登場しません。それは観ているボクたちです)。意外な事に、この映画を見る前の想像とは逆に、一番幸せそうに感じたのはイラクの人たちでした。これが一番の印象です。低線量被曝ですからどこの人たちも状況は同じ様に思えるんですね(少なくとも画面上からは)、でもイラクの人たちは何故か幸せそうだったんですね。ボクの印象では、その理由は貧しいからだと思います。経済的に発展した人々が失ってしまったものがイラクの人たちには残ってるからかも知れません。ただ素直にそう思いました。

イラクは劣化ウラン弾の影響、アメリカは核施設の周辺住民、原爆投下地域の人々は投下直後にはそこに居なくて、その後に入ったために病気を発症してる人たち、そして最後には「普通に日本にすんでる自覚のない人たち」です。この最後のは肥田先生というお医者さんが自ら調べた所によると、日本のある地域では急激な乳ガンの死亡率が増えているのだそうです。それは北海道から東北地方、そして金沢辺りの日本海側にかけてで、これがヒバクによるという因果関係は証明できないにしても、あきらかに異常な増え方なのだそうです。そしてその時期からみてどうもチェルノブイリの原発事故に関係があるんじゃないかというのです。その真相はどうあれ、結局環境問題ってのは国境なんてないんです。空気にのってジワジワと、そしてしらないうちに生物全体を犯して、食物連鎖で摂取し、母乳で受け継がれ、遺伝子を破壊する。この「ジワジワと」っていう目に見えない怖さですね。ハリウッド映画のようにスカっとしない、因果関係もなんだか分からないような歯痒さのこの「ジワジワ」とした映画。でも着実に全世界の生物に広がりつつある「ジワジワ」です。

後の質疑応答とかの話によると、青森の六ヶ所村では核の再処理をするために、普通の原発が一年間で放出する量の放射能を一日で放出するのだそうです。原発には何故かエントツがありますが、あれは大気中に「人体には影響のない量の放射能」は放出されているのだそうです。知らなかった……。

この映画に出てくるヒバクシャの人たちは、何のためヒバクしてこんな辛い思いをしてるのか? そう思う訳ですが、ボクが思ったのは、これは全て「国益のため」だと思うんです。みんな国益の被害者です。映画中に肥田先生が「政治っていうのは、目的のためには犠牲をだしてもいいと思っている。それが政治っていうものだ」というような事をおっしゃってて、それがこころにしみました。


2003年09月11日(木曜日)----すぎもと

放送禁止歌

誰か、所かまわず無意識に口ずさんでしまう「マストにいきマスト」っていう歌を抹殺してください。何か負けたみたいで歯がゆいのです。キー!!


「放送禁止歌」(森達也 著、デーブ・スペクター 監修/解放出版社/ISBN4-7592-5410-2)を読了。図書館で見つけたのですが、借りたのはソフトカバーの単行本で、他に文庫本にもなってるようです(→ Amazon.co.jp:放送禁止歌)。 この本は、フジテレビの「NONFIX」という番組で放送された 「放送禁止歌 〜唄っているのは誰?規制するのは誰?〜」っていうドキュメンタリーを作った経緯や裏話、放送後の追加取材などをまとめたものです。読みはじめたら止まらないくらい、面白いし興味深い本でした。いずれ絶対に買おうと思います。

へぇ、そんな曲まで放送禁止されてたのか……というのを知ったり(例えば高倉健の「網走番外編」)、そんな理由で規制されるのかとか(例えば北島三郎のデビュー曲である「ブンガチャ節」)、とても興味深いのですが、その禁止の根拠がかなりお粗末なのは想像通り。「放送禁止歌」というのがあるのではなく、民放連の指定した「要注意歌謡曲」っていう、単なるガイドラインが根拠の模様で、これはすでに事実上機能してなくて、しかも各放送局で「放送禁止」とされている曲がこのリストになかったりするという不思議な状況なのだそうです。これがメディアの対応かと思わせるような、思い込みと思考停止の現状が興味深くてあきれます。

第三章に森達也氏とデーブ・スペクター氏の対談があるんですが、これも興味深いものです。メディアについての日本とアメリカの比較みたいな感じなのですが、一番感じたのはやはりアメリカは権利を勝ち取って来たという事で、日本はお上(もしくはアメリカから?)から与えられたものだという事ですかね(少々極端ですけれども)。アメリカの規制というのでは、向こうでは生放送の収録と放送では六秒間のタイム・ラグをつけるのだそうです。その六秒間に不適切な発言とかがあれば削除なりできるようにだという事のようです。へぇ(これはNHKの地震の映像みたいですね。大きい地震のときによくNHKの事務所内での地震発生の瞬間の映像がでてきますが、あれは全部の局内で二十四時間ヴィデオ撮影してる訳じゃなくて、このタイム・ラグの間に地震を感知したら、ヴィデオのスイッチが入るらしいですね)。でもこれも「規制」ですよね。「表現の自由」を重んじるアメリカにしては意外な感じはします。でもこれは、今までメディアが政府の圧力と真っ向から対決してきた結果に生まれたものなのだそうです。結局それで自己規制してしまうのならば、日本とどう違うの? ってはじめは思ったんですが、よく考えると違う事に気が付きました。つまり、アメリカは闘ったうえでの自己規制で、日本は闘わないための自己規制なんじゃないかと。自分達はこういう表現をしたいから、この表現方法は必要なんだって闘うよりも、最初から闘いたくないからそんな表現やめとこうよっていう感じですね。それを若い世代が意味も考えずに受け継ぐという思考停止状態な訳ですね。いかにも日本的というか……。

ちょっと意外な感じがしたのだけど、基本的にアメリカ人は暴力や性描写はタブーなのだそうです。この二つこそアメリカ! って感じに思ってたのですが。だからアメリカではこういう表現が必要ならば、マーケットや視聴対象をきっちりと分けるのだそう。無闇に垂れ流しはしてないという事ですね。そういう意味では日本の方がその二つは氾濫しすぎてるという事ですね。これもいかにも日本的。規制されてない事はドンドンやる、そのかわり規制されそうな事は闘う気もなくシュンってなるんですね。その徹底ぶりは凄くて、「ノートルダムのせむし男」っていうビクトル・ユーゴー原作のディズニー映画が日本に入って来た時に、「せむし男」を「鐘」に変えたそうなんですが、普通は邦題だけを変えれば良い様なものなのに、ご丁寧な日本人は原題まで変更したのだそうです。へぇ、ビックリ。原作を改悪して何でもハッピーエンドにしたがるディズニーのやりかたもおかしいとボクは思いますが、このやりかたはそれ以上ですな。アホらしいというより、激しく原作者に失礼な行為でしょう。

あ、それからこの日本とアメリカの所で、ちゃんとフランク・ザッパの「ワーニング・ステッカー」をめぐる件について、ちょっとだけですが記述がありました。

そういえば、昨日の「トリビアの泉」で、ガチャピンが子供を食べるっていう歌が紹介されてましたが、それもクレームで一週間で放送を打ち切ったのだとか。面白い歌なのになぁ、あれがダメなんてセンスが悪い。というか、それぐらいの「毒」はお伽噺にこそお決まりなのだから、そういう必要な「毒」を抜いたモノばかりを与えられた子供っていうのは、本当に怖いと思いますがねぇ。勿論クレームをつけた親が一方的におかしいっていうんじゃなくて、制作サイドにどれだけの考えや覚悟みたいなのがあって作ったのかっていう問題も無いとはいえませんが。

後半には「竹田の子守唄」についての記述があります。「竹田の子守唄」は一九七一年にフォークグループ「赤い鳥」が歌ってヒットした曲なのですが、この曲が生まれた背景、そして放送から消えて行った背景について、実際に著者が竹田まで取材に行って書かれています。しかし恥ずかしながらボクは、この「竹田」っていうのが京都の竹田だったなんて、この本を読むまで全然知りませんでした。しかも今ボクが住んでる伏見区内の事だったなんて……。興味を持ったので「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」(藤田正 著/解放出版社/ISBN4-7592-0023-1)という本を見つけて読んでます。「竹田の子守唄」の原曲は十五番まであって、その完全版が元「赤い鳥」のメンバーである「紙ふうせん」が最近のアルバムに収録されているそうです。(追記)ボクが読んだ初版本でのこの記述は、著者の電話取材による聞き違いによる間違いなのだそうです(二版目以降は修正されてるのだそうです)。実際には原曲より新たに歌詞を取り入れた「竹田の子守唄」が収録されているという事だそうです。これも聴いてみたいと思ってます。

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